昭和五十四年四月十日 月次祭
今朝の御祈念の後の時でしたがここの合楽指出の久保山さん達親子で参拝されて今度の指出地区の共励会にはもう一つ近所の人をお誘いしてそしてあの有難いお話を聞いて頂こうと思いますがと云うお届けがございました。そりゃあ結構ですなと云うてお届けをさして頂いたことでした。ほんとに自分が助かって行って居る、自分の心がおかげを受けて居る、受けて行って居ることが感じられる。これを人にも伝えそしてやはり信心をして頂いたならどんなに有難いことだろうかと思います。その思いが、ね、まあ共励会と云うことにもなり信心研修と云うことにもなり、そしてまだ信心を知らない人達にも伝えずにはおけぬと云う様な心が生まれて来る。心が弾んで来るわけです。心が生き生きとして来る訳です。いよいよ御大祭も後五、六日になりましたがね、どうでも一つ有難いほんとに神様も喜んで下さり私共も喜べれるほんとにまあ合楽顕現と云うか合楽の世界の雛型の様なおかげを大祭の上に頂きたい。それには皆さんが今の久保山さんじゃないですけれども、今度の御大祭にはそれこそ隣近所をお誘いし合うてそしてお参りさして頂こう、そしてあの御大祭の雰囲気に浸って貰おう拝んで貰おうそして有難いお話も聞いて貰おうと云う様な心がお互いの心の中に出来て来る、そういうおかげを頂きたい。為にはどうでも肝心要な自分の心と云うものがね、整えられる。自分の心が生き生きと瑞々しいまでにおかげを頂いて居らないとなかなか人に話しかけることも出来ません。人に伝えそしてそれを表して行くと云うその手立てが出来ません。
合楽示現活動に参画させて頂く、させて下さいと日日お互い祈って居りますけれどもその祈りの中味がです、ほんとに示現活動に参画させて頂きたいと云う願いがあるや否や、ここを一つ確かめてみなければいけません。大祭と云う頂く前には自分の心がですね改めて一ぺん問い直される、見直されてこういう心では有難い御大祭は頂けないぞとま気付いたところを改めさして貰うて生き生きとした心の姿勢を頂きたいものだと思います。
今日私御神前で一番初めに頂きましたのは、素晴らしい昔の大きなお公家さんでも持つ様な扇子がもう見事な松に鶴がついた絵が書いて有るのがパアッとこう開いたところを頂いたんですけれども肝心要のここの要の所が抜けておるお知らせでした。ね、
お互いが日勝り月勝りにおかげを頂きたい、いわば末広のおかげを頂きたい、ね、だからどういう風におかげを頂いて努力はしましておかげを頂いてもねこれが開きましても肝心要のこれがなかったんでは使い物にならんでしょう。ね、おかげは頂いても肝心要のところが出来ていないとおかげにならん。
今朝の御理解に、それには信心が好きにならなければならない。信心がね、ええ真の信心を追求する、追い縋って行く、ね、信心を求めるおかげを頂く。信心が好きにならなければならないと云う。ね、信心を私共が追いかけて行かなきゃいけない。ところが私共はねおかげの方が私共を追いかけて来る。云うなら難儀を感ずるからね、難儀に尻を叩かれる様にして神様にお参りをして来ると云う様なみんな信心はそれから始まりますよね。そこからでもです、確かにそのあのおかげが受けられます。そのおかげが受けられるから神様はもう有難いとか神様はござるとかと云う事が分かる訳なんですけれども、そういう神様が私共に求め給うものは何かと云う事が分かることが信心なんです。ね、
今度はいよいよ選挙のシーズンですから沢山選挙のお届けがございましたがもう全部今度の選挙には皆さんが不思議におかげを受けたと云う、今日あのいろんな銘柄の違ったお酒が沢山来ておりますね、あれはみんなお礼参拝して来たあそこここからの御神酒が入ってるから、もう聞いたことも見たこともない様なお酒が今日沢山来とります。ねえ、だからまあお礼参りをしたけんもうこれでおしまいと云う様な事ではなくて後々の信心が今日私皆さんに聞いて頂こうとするところなんです。そう言うおかげを頂いてその神様の云うならそのお心が段々分からせて貰える。
今日研修の時に話したことでしたけれども、合楽の神様いや合楽の祈りと云うものがですここにお取次を願われたが最後その祈りのその働きと云うものはね初めてお参りして来たと云う人の上にでもしかも夜もなければ夜中もないこういう神様の働きが起こって来るんだなあと云うことでございました。ね、
昨日朝の御理解にあの大分の壁村さん、今度県会議員の。もうどんなにその計算しても二千票は足りないと云う人でした。それでもう御親戚の方それから御兄弟方がもうそれこそ一生懸命にあのお願いに見えました。丁度選挙の四・五日前には御本人が見えられました。もう夜済んでから遅うでした。応接間で家族の方が五・六人でしたでしょうか、甥御姪御に至るまでがあのう綾部さんのお導きで参って見えた。ね、それで私がその応接間で頂きましたことが、丁度あの白い今咲いております花がありますね。あの花のお知らせを頂く時はままになると云うことなんです。あの花がいっぱいこう花瓶に挿してあって中に真っ赤なカーネイションが二本挿してあった。それで私はその生け花を指しながらその壁村さんにお話したことでした。ね、問題はね、あの花はままになると云う花ですからおかげになりましょうけれどもその為にはね赤い心、真心、情熱、信心にかける熱情が必要なんです。そこからままになるおかげがこちらの願いが成就すると云うお話をさして頂いた。それで帰りがけに車二台かで分乗して参って居られましたが、帰りがけに綾部さんに話されること、その御兄弟のお姉さんのかなんかで、今朝から私はね、親先生から応接間でお話を頂いた時にびっくりした。と云うのは今朝方お夢の中にあの花のお知らせを頂いて居った。自分はお知らせとも何ともまあ不思議なお夢だったなあと思っただけだったけれども、晩に参ってその御理解を頂いて、ああ今日はあの朝あの花のお知らせを頂いて居ったが私が頂いたのはその白い花がパアッと散って仕舞うところを頂いた。ね、成程公算通りに今度の選挙にはまあ当選しないと云う運命的に云うたらそうであろう。ところがここにお参りして信心の熱情、真心、思い信心の熱意と云うものをそこに掛けたらままにならんものでもままになるおかげが頂けると云うお知らせを頂いてそれからもう親戚一同の方達が勢い込んで朝のお参りに参って来るようになった。ね、また云うならばこれが真心でも有ろうかと思われる真を形に表してのお願いであった。おかげで一千票差が付いた。云うなら三千票の差がついたようなもんだよね。もう大変な喜びでその朝の御祈念にそのお姉さんがお礼に出て見えられまして本人はそのまま熱発して寝込んで仕舞うたと云う様なことでした。例えて申しますとね、合楽のひとつの祈りと云うなら私の祈りの圏内に入ったが最後もう夜もなければ昼もない、もう昼夜分かたずしての神様の祈りの中に居ることが出来ると云うことが分かるでしょうが。ね、今度の今度もそうでした、県会議員久留米の。不思議な不思議な縁で私の従兄弟の関係があったりここの御信者さんの関係があってからその毎日毎日参ってきた。お参りをして来たその翌朝にお夢を頂いた。まあ御神夢かなんか知らんもんですから、明くる朝参って来て不思議な昨日夢を頂きました。誰かね上から一生懸命餅を投げてやんなさる。そのお餅をね全部受け止めた拾い止めたところをお夢に頂いた。ああおかげ頂くばい、ね、餅と云うことは心持ち、みんなの云うなら真心をですみんなの心持ちを集めて受け止めると云うことである。ね、まだここに出て来たかな、出て来たかな。昨日の晩は当選確実だと云う電話が入ったんですけれども、やっぱ当選したとやろ。のおかげを頂いた。当選するせんは別としてそういう神様の働きがね、もう初めて参った人の上に夜も夜中もこそういう働きが起こって居ることがその御神夢お夢の中からでも分かるでしょう。ね、形に夢を見るとか見らないじゃないけれどもそういう働きはここに縁を頂いてお取次を頂いたが最後もうその時点から神様の働きは起こって来るのでございます。その神様の働きを頂き止めると云うことをみんなはおかげと云う訳でありますけれども、そういう神様の人知人力では如何ともしがたいことがおかげになって行くと云う働きを頂いてそういうおかげを受けることが信心だと思い込んで居る人もあるのです。ね、私共段々分からせて頂いてもうおかげを受けなければならんのだけれどもいわゆる信心を云うならば極めて行こうとする姿勢。ね、信心を頂きたい、何ちゃ願うこと云うなら難儀なことがに尻を叩かれての苦しいから神様参りをすると云うのではなくて、云うならば信心とは真の信心とはとそれを追求する心。為には信心が好きにならなければならない。好きになる手立てを合楽では色々な角度から説く訳でございます。
今日椛目の妹がお参りをして参りましてから今朝方から頂いたお知らせの事を、右手に荒川ばってんと云うなんかテレビかなんかに何時も出る人らしいですね、荒川ばってんと書いてある。左の手を見たところが佐川光夫と書いてある。佐川光夫ちゃ歌手かなんか昔居りましたよね。皆さん大体分かるでしょう。ね、荒川ばってん、云うなら最近言われる右の手左の手い云うなら右左が足ろうた、天地が足ろうた、陰陽が足ろうた。ね、そこから生み為されるところのおかげでなからなければ本当なおかげではないと云うことをしきりに説いて居ります。今迄の過去何千年の間にあった色々な宗教がありましたけれどもそれは全部が片手落ちの信心であった。だから本当の助かりにはならなかったことは過去数千年の歴史が物語って居ると、まあ因縁の為に苦しんでおる、罪のために罪の深い為に自分は助かることが出来んと云った様なところをですね教祖金光大神は例えば罪であろうがね、因縁であろうが詫びれば許してやりたいのが親心であり、ね、和賀心を極めて行きその和賀心の前には罪も因縁もそれこそ霜に煮え湯を掛けるように消えるんだと云う教えが金光教の教えなんです。だからそこには罪もなければ因縁もないのだと。それをいかにもあるかの様に思うて居ったのは片手落ちであったと云うことが分かる。ね、助けたいと云う片一方の手では助からんごと助からんごとと云った様な教えになってきておるわけ。あれは食べちゃならんこれは飲んじゃならんと云った様なことになってきた。神様教祖金光大神はそれこそ神様頂きますと云う心あらばどういうもんを頂いても障ることも当たることもないと仰る。ね、医者が例えばそういう物を食べちゃいけないよと云うても頂くと云う心で頂けばおかげになると教えられて居られるのです。ね、荒川ばってん、云うならばあらぶる神、佐川光夫これは和らぎの霊と荒霊と云う風にこう頂いたらいいと思うんです。ね、そうしてその後に頂いてることが素晴らしいです。「合楽理念は家を修理する様なものじゃ」と頂いている。ね、今ここで教えを段々私が頂きますところに依るとね、いわゆる「寒天危地」だともうこれは「地球の破滅だ」と云われて居る。もう地球に死相が現れておる様に云われて居る。ね、それを、ね、復活させる。それを生き生きとしたおかげの世界にさせる為にいわゆる「歓天喜地」歓びの天歓びの地である。「寒天危地」と云うのは寒い天、ね、危うい地この寒い危うい「寒天危地」を喜び歓び満ちる世の中にするその手立てはもう合楽理念を以ってする他はないと極められてここでお話を頂いて居るわけです。そげな大きな事ばっかり言うちからほんなことじゃろかと思わずにそこを信ずるところに私は合楽の信者の云うならばこれからの云うならこれからのそういう一つの使命感に立っての信心。為には私共がおかげを頂くでなくて信心を頂くと云う、いわゆる信心を追求すると云う、ね、信心を追うて行くと云う。それにおかげに尻を叩かれてから神様と云うて向こうて来るのでは間に合わん。ね、
おかげを受けて神様が分かったら、云うなら神の心が分かりたいと云う信心真の信心を追求する求めての信心にお互いがならせて頂かなければならない。その求める心は何処までもいわゆる肝心要の和賀心である。心が生き生きとして来る。
今朝から皆さんにも聞いて頂いたことでしたけれども、ね、お夢の中にもうそれこそ見事な見事な親玉串になるのであろうと云うこのお榊をある黒衣を着た修行生の方がこう持って行っておられる。だからあまりにも見事なお榊だからあれは恐らく甘木の親先生がお上げになるのであろう、あの修行生は甘木の修行生であろう、あの修行生のところへ追いかけて行ったらね、聞いたら何処で買ったか何処で求めてきたかが分かるだろう。私もそういう立派な榊が欲しいと思うて後を追いかけて来て居るところであった。ね、そしてずっとこう山辺の道を来てあの常持の上辺りからこう降りる曽根があるあの曽根を追いかけて来てる。そこであのお爺さんとお婆さんに呼び止められてその色々問答があったわけですけれども、その云うならば榊と云うのは木遍に神と書いてある。ね、云うならば信心である、神心である。その神心を思うと一生懸命追うて行きよると云うのが私の信心である。と云う御理解を今朝から頂きましたよね。そしてそのお爺さんとお婆さんと問答が済んだと思いよったらその常持の下の方から見たごとのある誰か登って来よるがと思うたら千代田雪太さんであった。二、三年前亡くなられました。私の若い時からのまあ心易くしとった方です。そして何処へ行ったかと云うたらその常持に行ったと、それでああた常持にお悔やみに行ったという。お悔やみに行ったっちからあんたこの頃死んだとやろがちと云うたら、そうたい、それけんその常持にお悔やみ来た、と云う様な夢であった。ね、霊様が云うならば常持に云うならば誰か知った人があってお悔やみに来たとは云うのはどういう事であろうか。ね、合楽理念を以ってしておかげでですいわゆる霊の世界で云うならば合楽の世界に住むことが出来た。こちらの方を見てみるとそれこそ信心しよる者もしよらん者もあるけれども信心しとってもはぁ信心ちゃ有難いなおかげちゃ有難いなと云うその有難いなと云う心を常に持ち続けるとここで云われるが常に持っては居るけれどもね、それではあの世では役に立たん、信心が有難いと云うだけでは。それが次のそこに見えて居るところの合楽世界に到達しなければ。そこには神様と氏子が仲良うする世界、神様と氏子とが喜び合い拝み合ってそこから生み為されてくるところのおかげが頂ける様にならなければ本当の合楽世界に住むことは出来ん。極楽世界のもいっちょ向こうの世界である。ね、だから云うならこちらでです、云うならば信心も分からずいや分かっとってもおかげ信心に終わっておる人達に悔やみに来たち。だから最近参って来るたんびにその話をしながらです、ね、霊様からお悔やみにどん受けるごたる信心じゃいかんばいと私が申しましたが、んなら皆さんの中にも霊様からお悔やみを受けられる様な程度の信心が沢山あろうかと思うんです。信心が有難うなる、楽しゅうなる。もう信心が分かって行く、信心の世界がもう有難い、肝心要のところをきちっとしてそして信心を追い求めて行く追求して行くと云うそこに信心の喜びがあり、ね、その信心の喜びにはもう要らんと云うてもおかげは付いて来る。ね、これはね、信心のおかげと云うものはね、私共が信心が分かって有難うして勿体のうして毎日そう言う生活をさして貰うて居るとね、いやと云うてもおかげの方が付いて来るわけ。ね、そこでね私共がやはりね、私共の云うならば心の世界からもうあれが欲しゅうして欲しゅうしてこたえんと云った様な心を取ると云うことが我情を取ることであり又は我欲を取ることであると云うことになるのです。我情が取れて我欲が取れて、昨日二、三日前でした。何かでそこの廊下を久富先生と二人で並んで通ることがあったんです。そしたらあすこへ御大祭のお供え、酒樽が来とりますでしょうが、置いて有る入口の所へ。あの横ば通るときにあの臭いだけはよかですねえちゅうちから久富先生が云いなさる。私も酒屋ですけん大体敏感なんですけども、酒の臭いがぷーんとすると云うことは気が付かなかった、横を通ったけど。けれども先生がもうそれこそ好きで好きでたまらんもんですからね、酒屋の前を通り抜けられんごとある人ですからあの酒樽の成程側に寄ってみると酒の臭いがぷーんとするです酒樽の新しい臭いが。そりゃもう何とも言えんです。ね、もうこの頃酒は飲まれん御神酒は飲まんと云いござるとじゃからもう忘れてござると思うけども心の底にはやっぱお酒がやっぱ欲しいんです。好きなんです、ですから酒樽の横が通り抜けられんぐらいよか臭いがするわけです。私はほんとにそう思います。この頃高橋さんとこの宅祭の時に私と綾部さんと久富さんと家内とが四人でどっか尾関かあの辺を通る時でした。久富さんが「三波春夫が来ますばいね」ち、こう言いなさるですもん。どうしてそげなこと知っとると云うたらいやあそこにポスターが出ちょったち。そりゃもう私がこりゃあのお芝居が好きですからね、あのかんてい流で書いた歌舞伎のあの看板はどげあったっちゃ見えるです不思議です。ね、久富さんが大変浪速節が好きなんですからちゃんと何処でか見てござるわけ。自動車に乗って行きながら三波春夫が来るです来月ちゃんと分かって居る。もうほんなこてはあ何月何日何処に来るまで読んじゃる自動車の中で。
私も昨日一昨日ですね、起きてから私の部屋は暗くしてありますからね、起きてあの横にあの冷蔵庫が障子を開けると向こうに小さい冷蔵庫が、それで冷たいものでも飲もうと思うて開けたんです。開けた途端にです冷蔵庫の上からねぴょんとこう何かが飛び降りたんです。それで私はびっくりしてこう見たらああた私が一番好かんとがこうやっとるわけです。それがこまいとじゃなかじゃ、こん位ある。私はびっくりしたばってんそれこそ腹をそれこそ心を落ち着けてね、それであのこれをあの今大きな声を出したら逃げると思うたから布団ばじーっと向こうの方へ押しやりましてそしてもうこれでそれこそ度胸定めてから見ました。したらこっちの方を向いてこうやって座って居ります。それでちょいと誰か居らんか居らんか、けたたましゅうおらんだもんですから豊美達が夫婦二階から降りて来ました。どうしたですかと云うてそれがあんた私が部屋に今あれが居るけんちょっと来て呉れと。ところがいちおさんはうちでやすんじょった風じゃ。じいっとこうやって見よるですからあんたがやすうごとあるなら誰か他の者でも呼んで来んのち。してから缶か何かで押えんのち私が云いましたらこうやって見よったら、こりゃあああた牛乳の上をかぶせてある紙じゃった。牛乳の上にかぶせてある紫色の紙がしてあるでしょう。それがね、障子を開けた途端ちょこんと飛び降りた様に見えた。そりゃもう私ほんとね布団も向こうに静かに押しやってね、そして動かんことを見定めといてから呼びに行った。そしたらその牛乳、まあほんとに怖くもない物を怖いそう云う様なことが私共の上には色々あろうと思うんです。はあ先生どうしようかと云うて参って来る。私から見るとですそれこそお礼ば申し上げんならん事ばどうしようかと云いよるとです。ね、心の中にね、それが怖いそれが困ると云う様なものがあるのです。その困るとか嫌だとか怖いとかと思うその心が私の心の中にあるんです。ね、
おかげを頂いてね、とにかくもう好き過ぎると知恵も無くなる、思案も無くなる。ね、だから好き過ぎるものがあってはならない。私共の進む前途には怖いと云うものは無い。あるものは神愛のみなんだと分からせて頂いたら、そこには云うならばどうでもよいと云う心が生まれて来るのです。ね、それも只どうでもよいと云うのは云うならばです、おかげを追求するのではなくて信心が分かることを楽しみに信心を追求する、信心を追い求めて行くと云う生き方からでなければ生まれないと思う。ね、その肝心要になるところは何時も自分の心、自分の心に怖いものは自分が作って居る。ね、自分の我情我欲が好きまでぐらいならよいけれども好きすぎると云うことになってくるときにです、ね、そこに道を過たせるところの何物かに代わってくる。ね、
私共が云うならばいよいよ真の信心を求めさせて頂いて信心の喜びを謳歌しながらしかもその信心の喜びを、ね、云うなら近所の方達にも今度の共励会にはお話を聞いて頂こう、ひとつ子供と二人でその案内をして回ろうと云うお届が今日久保山さんからありましたがです、そういう有難い心が生まれて来る、自分が助かって行って居る様子をです自分で思うた時に人も又助かって貰いたいと云う事になってくる。 いよいよその大祭がみんなのこの喜びを結集して十六日には行われる。そういう云うなら実行のチャンスを逃さずにお互いが自分周辺の人達の上にもです云うなら合楽示現活動に参画さして貰う、お導きの御用をさして頂く。それには先ず只言うただけではいかん。自分の心からそう言わずには居られないものを先ず頂くと云うことが自分の心を整えると云うことではないでしょうかね。 どうぞ。